だいたいにして自分の希望と現実はちがう。
以前勤めていた不動産会社で売買仲介においては「客の希望条件と実際の相場はだいたい1,000万違う」という話をよくしていた。不動産業界の一般論かどうかは知らないが、店の仲介営業のおばちゃんとよく話をしていた。
又、浅田次郎も競馬に関したエッセイでこんな事を言っている。
私のかなり確信的な推測によれば「俺は勝っている」と豪語した人でも、年間百万円は負けている。だが、それでも彼は名人である。
「ま、トントンだね」と答える人は二百万位負けている。これが一般的なファンであろう。はっきりと、「俺はハマっている」と自覚できる人は、三百万円以上は負けている。
引用:浅田次郎「勇気凜凛ルリの色」講談社文庫
このように自分の認識は希望混じりというか、都合の悪いところは見たくない場合が多い。
FXもそうだ。勝つ場合の値幅と負ける値幅は自在に決められるので、「利小損大」になりやすい。なので勝率はよくてもトータルで負ける。人間の行動心理の罠に陥りやすいので、マイルールと収支記録が大事と言われる。
さて、洋服のセンスについてもそれが言えると思う。
洋服も「自分が着たい服」と「似合う服」は違う。自分で洋服を買うようになると、この「着たい服」と「似合う服」のギャップがでかく、妙ちくりんな格好に一度はなる。ぶっとい足に横シマのニーハイソックスとかである。
洋服の着こなしセンスは場数だと思っていた。洋服に対して描けた時間と金がものをいう。すきこそものの上手なれ。
しかし最近、着こなしセンスも結局は己の理解なのだろうと思うようになった。
メルカリで不用品を出品するのだがその際になるべく寸法を書くようにしている。着丈、袖丈、肩幅等だ。これが大体数値的に似ている。すぐに着なくなった服はこの数値の中で何かが逸脱している。
場数の効用は失敗による己の理解(現実との補正)であり、数値化できるものを数値化し、記録をとっていけば、場数の数自体少なく済んだのでは無いかと思う。
「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という言葉を知ってそう思った。
賢者と愚者の間をとって、出来る限り記録は取ろうと思った。
この話ででてきた本
こんな本もどうぞ
コメント